人間は、考える時、いろいろのモノに名前を付けて、分けて考える必要もある。モノの名称っていうのはそういう意味で、人間として生きる上でなくてはならないモノでもある。【リンゴ】という呼称がなければ、一々説明が必要にもなる。【丸いくだもの】で区切れば、【リンゴ】も【なし】も同じモノという考えになるけれど、【丸いくだもの】というくくりの中で、【リンゴ】という名称があるので、リンゴは【リンゴ】となり、なしは【なし】と呼ばれるわけだ。だから? モノを区別するためには、呼称は必要であるわけで~ で、物品なんかはそれでよしなんだろうけど、人間社会で、人を区別するための呼称は、そういうわけにはいかないようで… 人間を【丸いくだもの】的にくくった中での【リンゴ】や【なし】って場合ばかりじゃないってのが、問題になるように思う。
人を振り分ける時に、肩書やレッテルが必要になる場合もある。それらが単なる【呼称】であるならば、大きな問題にはならないのだろうけれど、人間を【丸いくだもの】でくくった中での【リンゴ】や【なし】ってのとは、人によって、ちょっと違っているように思う。生きていればそれなりの肩書が必要な場合もある。自分の努力で手に入れたそれは、生きる上での武器になったりもする。そんな【呼称】といえども、人が持つイメージはそれぞれで、例えば「〇〇大学卒なのにこんなこともできないの?」なんて場合も少なくない。〇〇大学卒だって、ピンキリなのだろうにそんな扱いを受けることもある。でも、10人中、8人ぐらいの意見がそういう事なら、それは、自分の出身大学の一般的評価ともいえるので、受け止めねばならない事実になるかもしれない。
イメージ先行は、注意したい。たくさんの人間がいて、いろいろな方々がいて、いろいろな生い立ちがあるのだから、区別するための【呼称】に対するイメージとか解釈の差というのはあって当たり前なのかもしれないけど、【リンゴ】さんが、【丸いくだもの】のくくりの中にもかかわらず、【カエル】や【カラス】のようなモノを持ち出しているような状態? そんなモノを感じる時がある。人間って複雑なところがあるから? 【リンゴ】や【なし】のようなわけにはいかない?
なんというか、同じ【丸いくだもの】のはずなのに、自分はこっち側、ある呼称の方をあっち側とし、さらに、【こっち側】と自認する方に立ち位置が上という認識がある場合があり、そういった場合のそういう方々は、絶対【あっち側】になることがないと思うからか、【あっち側】より高い所からの物言いになり、ひどい方になると【あっち側】の方々をどう扱ってもいい!くらいの考えがあるように感じることもある。多分、これが、差別と言われるものになるのだろうと思う。
人は、現状が安定しているのなら、好んで変化を求めないことも多い。なので? 異質なものを受け入れたくない傾向もわからなくはないけれど、【丸いくだもの】の中という立ち位置でいえば、こっち側は【リンゴ】であっち側は【なし】だったとしても、くくりとしては、同じ【丸いくだもの】なのだから、仲間と思ってもいいように思うのだけれど、それをしない、できない方々もいる。そういう方々の一部とは思うけど、時には、【あっち側】の方に対し、攻撃や排除に向かったりもする。
病気の治療のために手術などで悪いものを切除するっていうのはある。悪性腫瘍などの場合、全てを切除できなければ、病気がは治ったことにはならない。病気がガンなら、早期発見で腫瘍が小さいうちにきれいに取り除くというのが、最善な方法なのだと思う。一部の方たちの考えに、それと似たような考えを感じることがある。【悪いモノを取り除く】それは、一見正しいようにもみえるけれど… 同じ【丸いくだもの】の仲間の中で、誰がそのジャッジ権を持つというのだろう。
私は、正しいか間違っているか、いいか悪いか、のジャッジを【リンゴ】がそこは並列であるべき【なし】にできると思っている方が不思議でならない。【リンゴ】にとって、たとえ【なし】が邪魔な存在であったとしても、存在の肯定否定のジャッジ権は【リンゴ】になんかない。正しいか間違っているか、いいか悪いか、2分類にこだわるからか、はたまた、単なる好き嫌いの感情なのか、攻撃や排除に向かうというのは、あまりにも傲慢な行為のように私には思える。
ジャッジをする方とされる方を選べるのなら、する方になりたがるのが人間というモノかもしれない。悪と善なら善の方を、弱者と強者なら強者の方になりたがるのが人間というモノかもしれない。(あ~やだやだ、また2分割思考だよな~)だから? 心の中で思うことを止めることはできない。でも、もし、誰かのそんな思いの中で、【悪いモノを取り除く】を実行し続けたとしたら、世の中に人間はいなくなってしまうように思う。
先日の【相模原障害者施設殺傷事件】が起こった時、憤りとともに、そんな事を思った。けれど、同時に、極悪非道な犯罪の実行犯といえども、人間の子どもとして生まれ、あどけない幼少期があったはずなのに… とも思った。犯罪実行犯を擁護するつもりはないけれど、彼も姿かたちが同じ人間であり、同じ【丸いくだもの】なのだというのは事実。犯罪実行犯を、別物で区切り、犯罪者が特別な存在で、別世界の事例と判断するより、人間というものは、もしかしたら、↑ な因子を持っているのかもしれない。と思ったほうがいいのではと思ったりもしてしまうのだ。
彼は、間違った正義を身に着けてしまっただけかもしれない。自分の正義に従ったり、自分の幸福を求めて行動したり、それは、人間の生きるためにしていって当然のことなのかと思う。でも、方法が望ましくない場合だってある。彼が事件を起こす前の過程で、それが間違っていると気が付く機会はなかったのだろうかと思う。多くの人は、極悪非道の犯罪に手を染めることはないのだろうから、多分、基本的な轍があるのだと思う。その轍を外れてしまうことが、どの地点の何の関わりで外れてしまうのか、また、それが、容易にできてしまうのかどうかはわからない。でも、刃物を握って生まれてくる赤ちゃんはいないというのは事実なのだ。
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区別と差別と…相模原障害者施設殺傷事件に思う
2016年08月22日
区別と差別と…相模原障害者施設殺傷事件に思う
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